ART LIVES TORIDE ここで芸術が生まれる。

市村 富子

作る事が大好きで、大学ではいろいろな素材に触れられる工芸科を選びました。木を彫ったのは3年生のときです。大きい木の塊を彫りたくなって、見様見真似でノミを使って彫りました。その時間が、ずっと終わらなきゃいいのにって思うほど心地よかったんです。木って受け止めてくれる範囲が広いというか、自分がどんな状況で向かっても、それなりに受け止めてくれるんです。樹木を見るのが好きだったですが、材料を見て中身がこうなってるんだとか、ちょっと木のことを知れたような感覚になるのもうれしくて。木と一緒にいたいなって思いました。

道具の仕立て方、木の扱い方をしっかり学んだのは大学院です。大きな機械を使わなきゃいけないことも多かったんですが、私、機械の音がほんとうに苦手で。機械は技術的に苦手な事も多いけど、やっぱり木っていう素材が好きだったので。ここから離れることは考えていなかったですね。

学校を卒業する頃作っていたのは、使えない工芸でした。自分の中のイメージを形に起こして、道具っぽいけどなにに使うの?みたいなものばかり。

自分が木を触って「なんかいいな」って思うことがけっこうあるんです。木くずを捨てられなくなっちゃったり、この重量感は手放せないなとか。木材の表面的な状態は気にならなくて、木そのものの存在感に惹かれてしまったら、それで良いんです。そういうものを手にとってつくりたいです。

自分が好きな木の塊をいつも見えるところに置いておいて、次はこの木を使って作ろうとか。木を立てかけておいて、しばらく見ているうちに「これはお盆になったらいいかな」とか思い立つんです。そうやって、木からの発想でできあがっていくこともあります。この梅の木は材木屋さんで一目惚れしたんですけど、なんだか力が強すぎて、まだノコギリが入れられない。まだお友達になれないというのかな。いつかこれで何か作れるかなって楽しみにしながら、一緒に暮らしているんです。

今作っているのは、食器や身近に飾って置けるようなものです。子どもができたこともあるのかな。見てくださったり、買ってくださったりする方の存在や、自分より相手を考えたものづくりをするようになってきたと思います。木の存在を感じられるものを作って、手にとった人がなにか感じてくれたらいいなって。

機械を使うのは、木をブロックに分ける時に使うジグソーと、父から貰った穴をあける機械だけです。底の面が水平になるので、それを目安に手で彫っていきます。この機械がすごく非力でね、1ミリに1秒2秒かかる。力を入れすぎると止まっちゃうんです。そんなやつが私にはちょうど良いんですね。私の相棒です。

お皿を10枚つくるにしても、定規を使うわけではないのでカーブはそれぞれです。木って性格が ひとつひとつ違うんですよ。ノミを同じ様に入れても、ザクッと入るものから、するっと抜けてしまうものとか、いろいろです。型を作って彫って行くのではなく、1個1個、持ったときにいいなっていう状態にしたい。多分、そういう想いで作っているんだと思います。パッと見た瞬間や手にとったときにいいなって、その一瞬の感覚がにじみ出るような作品がつくりたいと思っています。彫っているうちに、これだっていうタイミングが感じられるんです。

彫刻的なものは作った事がほとんどなかったので、取手の井野天満宮でお供えする鶴と亀の制作は、おもしろかったけど大変でしたね。それまで野菜で作っていた鶴と亀の代わりにするものだったので、リアルな野菜を表現しようと練習してみたものの、削りすぎて痩せこけちゃったりして。それでも支えになっていたのは、やっぱり木なんですよ。

受け渡し時の鶴と亀(提供写真)

お話をいただいて、どういう木を使えばいいか材木屋さんに相談したら、白いトチの木を用意してくれました。トチの木ってサクサク削りやすいと思っていたんですが、頂いた物はとんでもなく硬くて。すごく難しかったけど、木と刃物がぴたっと合ったとき、すごくいい表情になるんです。その木がもともと持っている質感を出すことができたっていう喜びが支えになって、なんとか形にできました。

もっと木のことを知りたいし、いろんな木に出会いたい。これまでは木が好きだって感覚でやってきたけれど、もっと勉強したいなって思っています。「なんかいいぞ」っていう木に出会えるのが、すごく楽しみなんです。