ART LIVES TORIDE ここで芸術が生まれる。

鈴木 厚

父が彫刻家だったこともあってね、43歳くらいまで彫刻やってたんですけどね。焼き物をはじめるきっかけは、そのとき短大に教えに行ってたんですよ。そこに大きな電気窯があって。やろうやろうって盛り上がって、お教室に通って覚えたんです。

短大解雇になったあと、自分でも陶芸教室やろうかなってガス窯を買ったんです。教えるにはちょっと修行しなくちゃって3ヶ月くらいやったら、けっこう売れて。こりゃいいやと思って、はじめたんですよね。

やってるうちにいろんなことを思うんだけど。彫刻家ってやっぱり、孤独なんですよね。そうそう売れるものじゃないし。だけど焼き物って安いし使うから、ある程度はお客さんも多い。ちょこちょこ会うから寂しくない、楽しいなっていう感覚があって、ハマっていったのかなってところですね。

あと彫刻家の2代目だから、彫刻ってどういうものか、芸術観みたいなものが、良くも悪くもある程度あるんですよ。彫刻をやってたころは、それに追いつくためにやってるところもあったんです。だけど焼き物ってやったことなかったから、自分の身の丈に合わせて価値観ができていくっていうのが楽しかったです。

彫刻やってるときも表面に模様を描いたりしてたから。器になってもあんまり違わなかった感じです。

つくってるものは土もの(陶器)もあるけど、磁器(石もの)が多いですね。いろんなシリーズをつくってて、作品によってもぜんぜん違うんですけど。今つくってる大鉢はアンダーグラウンド的なもの。だけどね、最初からそういうのをつくろうと思っても、うまくいかないんです。

普通に植物を描こうかなってはじまって、ずっと描き続けるんだけど、詰めても詰めても、やっぱりなんか足りないなっていう感じがして。お客さんもずっと好きで買ってくれてる人なので、これじゃちょっと悪いよなって感じで。そこでアンダーグラウンドなものを入れてみると、最初に頑張ってた植物が断然活きてきたんです。

マニアではないんですよ。タブーに触れて初めて作品が動き出すことが割合多いと言うことです。こう言うのはもちろん百貨店食器売り場には置いてもらえない。またここにも載せられないでしょう(笑)

つき詰めていって、違う要素を入れてみたときに道が開けるような感じなんです。気持ちがふっと軽くなるような。作品もよくなっていると思うんです。だけど最初からそれを狙ってるとうまくいかない。まっすぐ行けることはないんです。探り探り。いつもいきあたりばったり。

最初はひとつひとつ積み重ねて丁寧に描いていくんだけど、できあがるときって、なにか、パタパタってハマっていく感じ。一瞬でできちゃうんですよ。それが表現の楽しさでもあってね。

焼物って、自由じゃないんだよね。彫刻とか絵画だったら、表現の自由だって言ってなにやってもよかったりするんだけど、焼物って商品だから。やっちゃいけないことがあるんですよ。たとえば、政治的なことだったり、性的なことだったり。

自分でも、もうちょっと、正しいことをまともに主張したほうがいいんだって思う時もあるけれど、自分が作品の中でまっすぐ言うのはどうも違うなという感じがする。だから、悪ふざけしながらみたいになっていくんだね。
でも、そう言ったものに触れないこともまた違うなと言うところもある。

彫刻は言わば聖域でしょう。だけど器っていうのは、生活に入るものですから。そのなかでやるっていう。彫刻は偶像だった歴史が長くて今でもその感覚がやっぱり残っちゃっている感じがあるけれど、そうじゃないところにいたいっていう気持ちはありますね。彫刻とか現代美術とかって大きいんですよ。すごく。物理的にもね。そうじゃなくて、小さいものにしてポケットに入れておきたいっていうか。小さいところに詰め込みたい。だからこそできることってあると思う。

美術品に関しては偉い人が良し悪しを判断してくれるみたいなところがあるけど、焼物は自分で判断しますよね。そういうところでやるのは、いいなとは思うんですよ。